支援はオーダーメード
家族支援はオーダーメードと私はよく解説します。
家族を支援するとき、ひとつひとつの家族によって、事情もありようもちがうのだから、それぞれに合った支援がオーダーメードされるのは、当然のこと。
保護者も同じ。
学校では、「保護者」とひとくくりに表現されることが多いけれど、実は、それぞれ一人ひとり違う人達。
これまでのキャリアも、親としての考え方も、性格も、何もかも違う。
それなのに、先生達は「保護者」をひとくくりに「常識ある大人」としてイメージしているように思います。
経験的には「いろんな親がいる」ということわかっているはずなのに、「親なんだから」と一定の基準を求める。そして、オトナのふるまいをしない親に、つい批判の目を向けてしまう。
家族支援者でもある私は、そんな時どうしても抗いたくなってしまう。
保護者は一人ひとり違う。
そして、先生たちの”常識”が、それぞれの”常識”と必ずしも一致しない場合もある。
このことは、保護者理解の大前提として、肝に銘じておかなければ、と自戒しています。
保護者のバリエーション
保護者は一人ひとり違う。
このことを大前提として抑えつつ、しかしそうは言っても、これまでの経験から、保護者を大まかにタイプ分けすることはできると思ってもいます。
私は、保護者のタイプは以下のような分布になっていると考えます。
熱心な親 | 「フツウ」の親 | 放任する親 |
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それぞれの境界線は、実は曖昧で、また、それぞれのタイプには濃淡があります。
学校にコミュニケーションを求めがちなのは熱心な親、学校がコミュニケーションを求めざるをえないのが放任する親、そして学校とほとんど関わらない、サイレントマジョリティが「フツウ」の親です。
「フツウ」の親
教師はつい目立つ子に目を奪われがちですが、実は学級を運営できるのは、多くの「フツウ」の子が、やるべきことをしっかりやってくれているから。
同じように、子どもに安定した愛情を注ぎ、学校の求める提出物等は必ず期日通りに出し、協力するところはしてくれる、頼りになる存在。
それが、サイレントマジョリティ・「フツウ」の親です。
教師は、頻繁にコミュニケーションをとる保護者にばかり時間を奪われてしまいますが、この方々の存在への感謝を、強く意識しておかなければいけない、と常々思います。
※フツウを片仮名表記で「」をつけたのは、便宜的にそう分類しているだけで、本当は一人ひとり違うからです。
熱心な親
一人めの子育てをしていた時の私自身が、このタイプでした。
教育熱心で、学校の実践を批判的な視点でチェックしており、PTA活動にも参加しがち。
その子どもたちは、(単純に表面的行動で言えば)問題行動がある子か優等生のどちらかである場合が多い。
普段から積極的に学校とコミュニケーションを取ろうとし、必要な時にはクレームを入れることも。
先生にしてみれば、「学校に注文を付ける前に、自分の子をちゃんと育てて、問題行動を起こさせないでくれ」と言いたくなるケースもあるかもしれません(私だ汗)
教師の大応援団になってくれることもあれば、批判の先頭に立つこともある、目立つ存在です。
いずれにしても、教師にとっては煙たい存在かもしれません。
でも、自分で言うのもなんですが、実はいい人だったりすることもあります。
放任気味の親
三人めの子育てをしていた時の私自身がこのタイプでした。
教師の側に立つと、あの頃の私がどんなに困った親だったかよくわかります。
我が家の三人めは勉強嫌いで、しかもだらしがないタイプ。
宿題はやってこない、提出物は出さない、授業は上の空。
親に連絡を取ろうと思っても、連絡が取れない。
「あの子の親、教師らしいよ」
「ええー」
なんて言われていたんだろうな。
今でも、職員室で同じような親に、先生方が「あそこの家はしょうがない。」と、溜息をもらしている様子を見て、ホントに、当時の息子の学校の先生方に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
でも、そうわかっていながらも、正直、彼の学校生活の細かいところまでフォローする余裕は、当時の私にはありませんでした。
40過ぎて産休教員を始め、突然担任を任され、しかもすでにファミリーライフエデュケーターとして引き受けていた仕事を、兼業届を出してこなしながらの日々。プライベートのことなど、もう二の次三の次でしたから。
おそらく、放任気味の親達は、私と同様、なんらかの事情を抱えています。
特別なケース
ひとり親とか、経済的に余裕がないとか、そういうことは特別ではないと私は考えます。
私がここに、特に別枠で意識しようと呼びかけたいのは、親がなんらかの障害を抱えているケースです。
また、それらに当てはまらなくても、子どもを苦しめてしまっている場合もあります。
一見してわかることではないし、親自身が 自分がそうだと気づいていないことも多いと思います。
ただ、その発生頻度から考えると、こういった保護者と関わる可能性はとっても高い。
例えば、とりわけコミュニケーションが難しい境界性パーソナリティ障害の発生頻度は、1~3%。100人の保護者がいたら、最低一人ぐらいはいる計算です。
このほか、鬱、統合失調症、大人の発達障害、あるいはその他の事情など、いろいろなパターンがありますから、トータルの発生頻度は、もっと多いはず。
もちろん、教師は家族支援者ではありませんから、そんなこと知る必要は、本来ないのでしょう。
とはいえ、長い教師生活の間に、こういった保護者とコミュニケーションする必要が生じることは大いにあり得ます。
そんな時、それらの概容と適切なコミュニケーションについて知っていた方が絶対いい。
それらの知識をもって接するのと、素手で他の保護者と同様に接するのでは、その後の展開が大きく違ってくると思います。
(様々な保護者との具体的なコミュニケーションの考え方については、また別の記事で書いていく予定です。)
なお、境界性パーソナリティ障害に陥るのは、育ってきた環境の中で苛酷な経験をしてきたからと言われています。
つまり、境界性パーソナリティ障害を抱える親は「厄介な親」ですが、同時に、辛い経験を味わった「労わるべき人」。
他の特別な保護者もおそらく同様です。
コミュニケーションが難しい親は、その人に育てられている子ども共々、「支援が必要な人」でもあるのです。